あいかわらず hulu の drama を延々と見ている。主に一話完結型の刑事ものと医療もので、事前情報なく見ているが、昨晩、Season 6 の途中で唐突に主人公が病死した。たじろぐ。
もちろん振り返れば前触れは数話前からあった。主人公は通院し、心臓手術を受けていた。とはいえ、普通はそれくらいは物語上のちょっとした波だと捉えるのが drama を見慣れた視聴者ではないかと思う。まさか取り調べ中に突然死とは。
その後、脇役だったはずのおじいちゃん刑事が連続殺人鬼と大立ち回りを演じて、急に物語は終わった。つまりはあざやかな打ち切りだったわけだ。知らずに見ていただけで。
きっと脚本家や監督や役者に、さまざまなもめごとがあって、こうなったのだろう。それを想像するとわくわくする。そういう外的制約や人間関係の格闘の痕跡が、人を惹きつける作品の本質だったりするからだ。
途中で話が変わっちゃう作品が好きだ。Quentin Tarantino もそういう作品が好きだったらしく、揉めた映画への hommage として「From Dusk Till Dawn」を書いた、はず。
Video Game の「バイオハザード」の前半と後半の落差も元々はそういう格闘の痕跡ではないかとにらんでいるのだが、どうなんだろう。今でこそ味として受け取られているけど。
創作物に限らず、すべての事前情報は0のほうが楽しめる。ただ、楽しむための能力が必要で、そういう力のない人のために事前情報がある。これは旅にも言えて、楽しむ能力がある人は事前情報なしで旅をしたほうが絶対に楽しい。
でも日本では旅はまずどこに行くかを決めることになっていて、その習慣と自分の慣れている旅の仕方との差にいつも少し混乱する。さらに今は Google Map があるから、自分がいまどこにいるかわからない旅をするのは難しい。
むかし、Bangkok から行き先不明の電車に乗り、半日乗り続け、真夜中に国境審査が始まりあやふやにすり抜け、夜が明け、朝に乗ってきた親子連れに言葉が通じないながらもなぜか駅弁をおごってもらい、昼、何もない終点で降ろされ、目の前に船着き場があったのでとりあえず乗り、着いた先でPCを借りて調べてみたら、どうやら自分がとある島にいるらしいと知った、というような旅をした。
たどりついたその島は、今でも僕の精神的な故郷となっている。唯一の親友ともその島で出会った。
たまたまその島は世界遺産として知られる人気の楽園だったのだが、でも、そこを目指して訪れた観光客が南国の休日をゆったり過ごす「旅」と、僕の体験した「旅」とを、同じ言葉で呼ばないでくれ、という思いが、今でもほんの少しだけ、心のどっかに拭えぬまま残っている。