私欲をベースにするなら、知は門外不出として自分たちだけで独占するほうが合理的経済的行動であるケースが多い。実際、中世まで、知は権力者や権威によって宝物庫・書庫に厳重管理されるものだったし、今だって多くの企業は知を非公開にする戦略をとっている。
善なる顔をしているが、単に知をひけらかしたい、知的であると見られたい、知性のある立場を主張したい、という欲望で啓蒙的になる人々も多い。彼らは「知をシェアする」思想からむしろ遠い。バザーで自作の奇っ怪な工芸品を売るおっさんに似ている。
ゆえに、善なる心根を持たない人々が多数である社会では、インターネットにあるのは「知」からはかけ離れた、あなたを利用するとか、彼らの利になるものばかりとなる。
善なる心根を持つ人たちの用いる言語でのみ、インターネット上の知は意味を持つ。つまり、今からちゃんと知を獲得したいなら、日本語をあきらめるかインターネットをあきらめるかだという、わりとシンプルな結論が僕の答えだ。
大きな流れでいえば、言語の自然淘汰が働いているだけなのではという予感もするが、それを知るにはまだ見えないものが多すぎる。それはまた次の思索。