レッスン
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めんどくさいから自分のいる民主主義的社会に参加をしない、というのであれば、今度はさらにめんどうなこと(民主主義的世界と自分の社会との切断)を引き受けることになる。
「めんどくさい」を肯定してはいけない状況はある。
車に乗っていて「ああブレーキ踏むのめんどくさいなあ」と思ってはいけない。
動脈が切れていて血があふれ出しているときに「電話して人と話すのめんどくさいなあ」という気持ちはなんとか払拭しなければならない。
「めんどくさい」をベースに生きている人は、言葉を出すことや意見を戦わせることを避ける。
対立がものすごくめんどうだからだ。
すべての言葉を暴力ととらえ、すべての会話を圧力ととらえるほどに「めんどくさい」が育ってしまったら、もう民主主義的社会には向いてない。
社会、と書いたが、友人関係でも家族関係でも恋人関係でも、人が二人以上いれば社会だ。
民主主義的社会において、あなたは、参加している社会をより良くするために生きることになっている。「良い」とは何かは多様なのであなたの「良い」で構わない。むしろ一致しないほうが良い。
「良いかどうか」ではなく「力関係」だけを見極めて行動するような人は、社会参加をしないずるい人だとされる。
めんどくさい。
それでも、強ければ自分の思い通りに、弱ければ誰かに従う人は、民主主義的社会では、うまくいかない。
結婚や恋愛がうまくいかなかった人の中には、「より良くする」社会参加をせず、相手にただ従っておけばよい、と考えていた人も多い。
びっくりするけれど、振られたり捨てられたりしてきた理由の結構な数は「あなたが民主主義的でないから」なのだ。
家事はめんどくさいが、民主主義的人間として動くなら、より良くするために対話をしなければいけない。
提案し、その提案の問題点を指摘され、提案を受け、その提案の問題点を洗い出し、何が論点でどのような要求が満たされると社会の構成員が妥当だと思う「より良い」状態がつくれるかを話し合いによって決める。
めんどくさいことをさらにめんどくさく書いてはみたが、要は、「今晩何食べたい?」「揚げ物」「揚げ物は後片付けがめんどくさいし油が足りない」「じゃあ別にどうしても食べたいわけじゃないから却下。今日食べたほうがいい食材はなんかある?」「レンコンともやし」「野菜炒めしか思いつかない」「挽き肉ではさみ焼きは?」「ああいいね。一手間かけちゃうけどよろしく。楽しみです」という対話のことだ。
これがめんどくさいから、男のほうが大きな力を持ち、女のほうはそれにしたがう社会をつくりたい、という人もいる。
そうすると、社会の半分の人の意見が失われる。社会の半分の人の創造性が失われると、当然、社会の全員が力を発揮する社会から、どんどん置いていかれることになる。
国が、民主主義をすべてのサイズのコミュニティーに適用したいと考えるのは、そうしないと他の国と力の面でも差が開くのを知っているからだ。
その普及を怠って経済成長がとんでもなく止まっている国もある。
「どうでもいい」「どっちでもいい」「やりたい人にまかせればよい」は、短期的には、社会全体にとってマイナスになる考え方を大きく利する行為であり、長期的には、誰のための幸せにもならない。
私たちは、望んだわけでもなく、民主主義的世界に接続したそれぞれの場所にいる。
自分の体や心は、生まれたときから世界に接続されている。
社会のことを他人のせいにすると、思考する体の重要なパーツを捨ててしまうことになる。