聖地甲子園の名を借りるなら
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さておき、もし本当に「短歌甲子園」と呼ぶにふさわしい、真剣にスポーツとしての短歌の力を競うためのルールを考えていくと、結局「連歌」に近くなるのでは、と漠然と思う。
運動能力のように「詩の能力」があるとすれば、それは「もろもろの言葉の、普通の人が見ても気づけないおもしろい部分を切り取り、楽しむ力」という要素が大きい。発見がないところに詩は生まれない。
だとすると、相手の作品を批評したり、場合によっては批判することで得点されるという要素があるのは、詩の力とは違うタイプの言語能力を競っているように見える。
「他の言葉がいかに凡庸でも、あざやかに分析し、思いも寄らない切り口で切り取ることで魅力的な解釈へ変更してしまう」というのが、僕の考える最強の詩人だ。そして、スポーツであるのならば有限の時間の中で、その場で打ち返し合う性質を保たねばならないので、(必ずしも詩人に必要な力とは思わないけれど、「甲子園」であることを保つために)即吟でなければならないだろう。持ち帰ったり持ち寄ったりするのはスポーツではない。
その攻防は、「連歌」という先人の遊んできた形ともうほぼ同じだろう。
連歌は、ゲーム性が高くやりこみ要素が深いので室町・戦国時代にはみんなが夢中になっていたし、庶民的なルールになって江戸時代にも再ブームとなった。フットサルやビーチバレー的に俳句や川柳が派生的に誕生するほど受けた。俳諧連歌がゴルフだとすると俳句はドラコン、川柳はパターゴルフみたいなものだ。
とはいえ連歌は連歌として発展してきた歴史も長く、その現代版である「連句」であっても、短歌の能力とは別の能力が大切な文化となっている。なので、連歌の式目(ルール)とは違う、もう少し特殊なルールを足して調整することになるはずだ。